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くしびばこ

外国人から見た日本人・2

2011-08-11 (Thu) 18:04
引き続き、

ぼやきくっくり
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/

さんの中の、

日本と日本人、というカテゴリー内の、
外国人から見た日本と日本人シリーズ

からのピックアップです。

「外国人から見た日本人」

外国の方の、日本人に対する発言、著書での言葉などがまとめられています。


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余談ですが、ぼやきくっくりさんのサイトは情報量もすごくありますし、日本についてのことがたくさん書かれていて大変勉強になります。
多くの方に読んでもらいたいブログサイト様です(*゚∀゚)ノ
(すでに多くの方が読んでいると思われますが)
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↓↓↓↓↓↓
相林(そう・りん)
中国人。
1965年、山東省青島生まれ。
山東鉱業大学在学中から民主化運動に参加。
84年、東海大学に留学。
以後、中国民主化運動の中心的存在に。
98年に「中国民主化運動海外聯席会議」を発足、東アジア地域代表を兼任。

「正論」2005年8月号より

実は日本に来るまで、靖国神社は「戦後、A級戦犯を祀る目的で作られた軍国主義賛美の施設だ」と教えられてきました。
ところが、実際に来てみると、明治維新で亡くなられた方をはじめとする国のための戦没者を祀っていることを知り、驚きました。

私たち中国民主化運動に携わる者にとって、明治維新とは中国革命のモデルであり、維新の志士たちは尊敬の対象です。
中国人からみれば、日露戦争はロシアの侵略から中国を守る戦いでした。
ですから、私たちが尊敬する人々、そして中国を救ってくれた恩人が祀られているところ、それが靖国神社だとわかったのです。

そこで、日本に来る中国民主化運動の同志たちを、私はたびたび靖国神社に連れてきます。
そして、靖国神社は私たち民主化運動の恩人たちが祀られているところだと説明すると、みなびっくりして、丁重にお参りします。


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アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォード
イギリス人。
1866年(慶応2年)~1870年(明治3年)、英国公使館の書記官として日本に滞在。
その後2度来日。

「ある英国外交官の明治維新」より横浜初上陸の際ひどい悪印象を得て迎えた翌日の記述

午後のひととき、公使館のまわりをぶらぶらと歩いていると、不意に水平線から、なだらかに優美な曲線をえがき、白雪をいただく円錐形の山頂がくっきりと天空にそびえ立つ富士山の全容が、私の目に映った。
私は名状しがたい強烈な興奮に駆られた。
昨日までは考えもつかぬ狂気にちかい気持の高ぶりであった。
そして、その時の異常な興奮はいまもなおその余韻がさめやらぬし、おそらく生涯の終りまで消えることがないだろう。


管理人注釈:
どんだけですか。
>おそらく生涯の終りまで消えることがないだろう
すごへ。
横浜初上陸の際ひどい悪印象を得て迎えた翌日の記述、とありますから、
凄く厭な思いをなさった後、いきなりこの感動の体験をした、ということですね。

富士山は、もとは  不死(ふじ) という言葉から名付けられている他に、
「日本最高峰で並ぶものの無い」という意味で 「不二」 の山という意味合いも兼ねているのだそうです。
不死、と不二。 何ておめでたい名前なのでしょう。富士山素敵ですね。
ホラーの世界では、富士山は、頂上が日本の中で一番地上から遠い=あの世と繋がっている恐ろしい所みたく言われているので両方の意味が強いのかなぁ。
聖なるところでもあり、恐れられ(畏れられ)敬われるところでもあると。
でかい力でもあるんですね。
でもでも、そういうのを、「感じ取る」ことが出来るこのアルジャーノンさんという方も只者じゃない気がします。
やはり、イギリスも日本に次ぐ歴史ある王家を戴く国ですから、そういうところの国の方というのは、何らかの不思議な高位な力を持っているのかもしれません。

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ブルーノ・タウト
ドイツ人。
建築家。
ナチス政権に職と地位を奪われ国外へ。
1933年(昭和8年)5月に日本を訪れそのまま亡命。
日本では建築の機会に余り恵まれなかったが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
著書に『ニッポン』『日本美の再発見』など。

伊勢神宮の社殿建築を評して

伊勢は世界の建築の王座である。
芳香高い美麗な檜、屋根の萱、こうした単純な材料が、とうてい他の追随を許さぬまでに、よく構造と融合している。
形式が確立された年代は正確にはわからず、最初に作った人の名前もわからない。
おそらく天から降ったものだろう。


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某アメリカ人女性
アメリカ人。
麻生太郎前外務大臣の知人。

「諸君!」2008年2月号 麻生太郎「『保守再生』はオレにまかせろ!」(聞き手:宮崎哲弥)より

麻生太郎
「国際社会でも沈黙の美徳が通用するかというと、残念ながらそれはない。
つい先日、こんなことがあった。
オレのアメリカでの知り合いに、インテリで金持ちの老婦人がいるんですが、彼女は
『孫が日本のアニメ“ポケットモンスター”に夢中になっているけれど、あれほどショッキングなものはないわ』
って言うんです」

宮崎哲弥
「ポケモンに?」

麻生太郎
「そう。なぜなら、ポケモンは一言もしゃべらない。
『キュ』と『キュキュキュ』しか言わねえんだから(笑)」

宮崎哲弥
「ハッハッハッ(笑)」

麻生太郎
「いや、彼女が驚いたのは、ポケモンがしゃべらないにもかかわらず、コミュニケーションができる能力を持ってることなんだ。
『初めに言葉ありき』のキリスト教社会にとって、これは驚天動地のキャラクターだというんだな。
言葉がなくとも『ハート・トゥ・ハート』でコミュニケートできる文化をアメリカに紹介したのは、じつはポケモンだというわけ。
アメリカは自己主張してナンボの社会です。
日本人はあまりしゃべらないことから『何を考えてるのかわからない』と、不信感を抱かれがちだった。
ところがポケモンを見た老婦人は納得した。
『日本には、しゃべらなくても意思が通じるカルチャーがある』って(笑)。
ポケモンをこんなふうに捉えるインテリもいるんだなあと思って、感心したね」

宮崎哲弥
「いい話ですね。任天堂はわかってるのかな(笑)」

麻生太郎
「逆に言えば、日本人ならちょっと言い難いと思うようなことでも、いざ話してみればちゃんとフェアに受け止めてくれるのがアメリカ社会の特徴でもある」


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ラザフォード・オールコック
イギリス人。
中国駐在領事を務めた後、初代駐日公使。1859年(安政6年)日本に着任。
封建的日本の忌憚ない批判者だった。

「大君の都」より(但しこの部分は原著「The Capital of The Tycoon. A Narrative of a Three Years' Residence in Japan, 2 vols, London, 1863」による)
 神奈川周辺の田園についての記述


手入れのゆきとどいた高い生垣や垣根はまだ葉がびっしりとついており、オランダ造園風に刈りこまれ整えられている。
何と感嘆すべき植えつけ、刈りこみであることか。
英国以外のどんなところでも、こんな生垣にはお目にかかれない。
いやブリテン島でだって、こんな多様さは見出せない。
ここに低い生垣がある。
いや茶の木でできた鏡といったほうがよかろうか。
三フィートほどの高さのしげみが二つ三つ、よく繁っている。
ふつうの花がつく椿に似ていないこともない。
というのはおなじ種なのだから。
さあ、すばいもも(訳文ママ)の垣根に囲まれたところにやって来た。
柘榴の生垣がある。
中には背の高いオレンジの木が黄金の実をつけている。
そしてさらに奇妙なことに、今日は十一月二十五日というのに、一本の桜が花盛りなのだ。
おお幸せな土地よ、楽しき国よ。


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エドウィン・アーノルド
イギリス人。
詩人。
1889年(明治22年)11月来日。
インドのデカン大学の学長を務め、帰英後はデーリーテレグラフ紙の編集者。

明治22年、日本の聴衆を前に語った言葉より(出典:Seas and Lands/London(洋書))

私はこう言いたい。
あなたがたの文明は隔離されたアジア的生活の落着いた雰囲気の中で育ってきた文明なのです。
そしてその文明は、競い合う諸国家の衝突と騒動のただ中に住むわれわれに対して、命をよみがえらせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質をはぐくんできたのです。

〈中略〉寺院や妖精じみた庭園の水蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景のただ中で、長く続く荘重な杉並木のもとで、神秘で夢見るような神社の中で、茶屋の真白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さとから救われた気がしているのです。


管理人注釈:
何と綺麗な言葉・文章なのでしょう。
翻訳の方の手を経て、ということもあるのでしょうけど、あまりに美しい文章だったので取り上げました。(中身も勿論素晴らしいです)

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ヘレン・ミアーズ
アメリカ人。
東洋学者。
1920年代から日米が開戦する直前まで2度にわたって中国と日本を訪れる。
1946年(昭和21年)に連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーとして来日、戦後日本の労働基本法の策定に携わった。

「アメリカの鏡・日本」(昭和23年出版。出版当時、マッカーサーにより邦訳出版が禁止された)より

私たちは急いでいた。
広大な大陸を手なずけ、治めなければならなかった。
だから、儀礼とか世襲による特権を維持するために時を費やしたり、辛抱している余裕がなかった。
私たちは、形式にとらわれず、やるべき仕事を直進しなければならなかった。

日本人の場合はまったく逆だ。
彼らは急いでいなかったし、何がなんでもやらなければならないことはあまりなかったから、性急であるより気長であることに重きを置いた。
だから変化に抵抗し、日常の細部にこだわったのである。

政治、社会、家庭で、そして戦においてさえ、彼らは伝統、儀礼、祭祀にこだわった。
彼らは形式を無視するどころか、極限の儀礼を求め、伝統的に正しいとされる行為の礼を社会制度の基本にしたのである。

私たちはつかえるものがあまりに豊富だったから、何でも惜しみなくつかい、試した。
日本人はそれができなかった。
彼らに必要なのは保存だった。
過剰は私たち国民にとって国民的美徳だった。
私たちは浪費信仰をつくり出し、日常生活で消費した物はただちに補充するという考え方の上に、文明を発達させてきた。
日本人は節約を最大の徳とした。
彼らは節約信仰をつくり出し、何物もむだにせず、もっているものはすべて完全につかいきった。

私たちは大きいものを信じた。
日本人は二エーカーの農地から、小さな家、箱庭、根付、盆栽といった独特の表現様式にいたるまで、小さいものを信じた。
ボンビル・ダムが私たちの論理に合ったものなら、段々畑は日本人の論理に合ったものなのだ。
そして、今日、空の巨大要塞が私たちにとての論理的産物であるなら、一人乗り潜航艇は物を節約する日本的精神の表れなのである。

私たちは急いでいた。
装飾や美的効果を考える余裕は、時間的にも精神的にもなかった。
私たちが求めていたのは、物質的な快適さと便利さだった。
日本人は急いでいなかった。
彼らは物質的に貧しかったから、もっているものを飾ることを考えた。
美は彼らの文明の大事な要素となった。

私たちは自然を征服することを考えた。
日本人は自然を敬い、たいせつにした。
私たちは森林と土地に恵まれていたから、自然は挑戦相手だった。
木とは土地を拓くために取り除くべきものだった。
あるいは、木材として紙として、やがては新繊維として活用すべきものだった。

日本人は土地に恵まれていなかったから、もっているものを崇め保存し、自然崇拝を彼らの宗教、社会、政治の主要な柱とした。
伝統神道の多くの神事は、肉体的満足の対象である食べ物と、精神的満足の対象である美をもたらしてくれる自然に感謝する儀式だった。
私たちは土地がありすぎたから、広大な地域を砂漠にしてしまうまで、保存の必要性を感じなかった。
日本人はもっているものが少なかったからたいせつにした。
二千年にわたって耕してきたいまでも、彼らの小さな島は肥沃であり、森や田畑はさながら手入れの行き届いた菜園である。

私たちは自分たちのエネルギーを、国土の開発に、領土の拡張に、貿易に、私たちの行動と生産に役だつものすべてをつくり出すことに注ぎ込んだ。
日本人は貿易や拡張にではなく、自己規律に、そして風変わりな、劇場的な、複雑な、様式化された文明を完成させることに、エネルギーを注ぎ込んだ。
その文明はアメリカ的な生活様式ではなく、むしろ中国古典劇に似ているのである。

私たちは利用できる手段は何でももっていた。
私たちは膨大な資源を活かし、世界最高の社会的、政治的自由を発展させ、機械化と大量生産技術を開発して広大な土地に住むことの不利を克服した。
これが私たちの才能である。

日本人は利用できる手段に限りがあった。
彼らは規制集団を編成し、物に依存しないことを基本に、社会を発展させていった。
にもかかわらず、文明は未開の単調さに陥ることなく、様式美をもち、洗練されており、装飾的である。
これが日本人の才能なのだ。

(略)

文化と歴史を測る客観的判断基準は、その社会環境の中で経済・社会問題がどのように解決されたか、その文明が隣接国に対して侵略的だったか否か、の二点である。
この点から判定すると、日本の伝統文明は高く評価されていい。

日本が総じて安定した非侵略的な独自の文明をつくってきたことは記録に明らかだ。
近代以前の日本は少なくとも千八百年の間、様式化され限定化された内戦の時代と、全体的混乱の一時期を除けば、平和と安定の中で文明を発展させ、人口を増やし、制度を整備しつづけてきた。
そして、外国を征服しなかったことは事実である。
日本人を「間違い」で非難するなら、世界の大国になった近代国家で、こうした歴史を誇れる国がほかにあるか、探してみるべきだ。

私たちは日本国民を生来の軍国主義者として非難し、その前提の上に戦後計画を立てている。
しかし、日本国民を生来野蛮で好戦的であるとする証拠は一片もない。
なによりも日本国の歴史と日本文明の歴史がそれをはっきり否定しているのだ。


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ダライ・ラマ14世
チベット人の国家的、精神的指導者。
2歳の時にダライ・ラマ法王13世の転生者であるとの認定を受けた。
1949年(昭和24年)の中国によるチベット侵攻後、全政治的権限が委任されたが、1959年(昭和34年)、中国軍がラサ市民の武装決起を残虐な方法で弾圧、これにより国外への脱出を余儀なくされた。
以来、現在までインド北部のダラムサラにおいて、チベット亡命政府の元首としての立場を保っている。
チベットの自由化のために非暴力による闘争を選択、1989年(平成元年)にはノーベル平和賞を受賞。
世界各地をたびたび訪れ、講演など活発に行っている。

1992年10月ダラムサラの法王宮殿内にて行なわれた葉山氏との会見より

私は最初に訪日したとき、多くの友人に語ったこともあるし、自分も感じたこととして、日本は物質的に大層発展したし、また現にしつつあるけれど、そのうちある段階で、このような発展に起因して精神的な問題も生じてくると思います。
日本には、昔から豊かな文化もあるし、仏教の教えもありますから、それらを伝統や習慣としてやるだけではなく、よく考えてこれらの文化と思想を生活の中に活かし、物質と精神の双方を発展させることが重要だし、日本ならそれも可能だと思います。


管理人注釈:
さすがダライ・ラマさん。
段々と、日本が精神的な問題を抱えていくことを、見抜いていたのですね。

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C・W・ニコル
イギリス人(1995年日本帰化)。
サウスウェールズ生まれ。
17歳でカナダに渡り北極地域の野生動物調査を行って以後、カナダ政府の漁業調査局、環境局技官として12回に及ぶ北極地域の調査を行う。
1962年(昭和37年)、空手修業のため来日。
81年(昭和56年)から長野県黒姫に居を定め、作家活動に入る。
2005年5月、財団法人C・W・ニコル・アファンの森財団を設立し、理事長に就任。
日本の捕鯨史を学んだ関係で、日本の食文化・漁業文化・生活文化を守る必要性から捕鯨推進論者……らしい。

「WiLL」08年3月号掲載 花田紀凱との対談より

ニコル
「20年くらい前、知床で林野庁が木を伐採していたんです。
林道が止められていたので、地元の人とお忍びで森に入りました。
そこには400年近く生きていた素晴らしいミズナラがあったんですが、それも切られていました。
切り方が下手なので、引っ掛かって小さな切りくずがたくさん落ちていたので、それを持って帰りました。
磨いてみるとはっきりと年輪が見えて、江戸時代はこの辺だな、ということまでわかりました。
こんな素晴らしい歴史を持つ大木を国は切ってしまうのか、と怒りを覚えました」〈中略〉

花田
「1995年に日本に帰化されましたが、日本の森の何がニコルさんをそこまで惹きつけたのですか?」

ニコル
「確かにカナダの森も素晴らしいのですが、日本の原生林はもっと凄いんです。
例えば、知床では海岸線までミズナラの大木が生えており、その先に流氷があります。
落葉樹と流氷が一緒に存在しているなんて土地は、他にありません。
それに世界で一番古い木があるのも日本です。屋久島の縄文杉ですね。
私は22歳の時(1962年)、空手修業のために初めて日本に来ました。
それまで北極の調査をしていたので、日本の梅雨時の空手道場の湿度と温度は拷問でした(笑)。
そんな私を見て、道場の先輩たちが『涼しいところに連れて行ってやる』と言ってくれた。
当時、まだ日本語が不自由だったのではっきりした名前は覚えていませんが、確か長野県のブナの原生林でした。
原生林に入ったら、私は涙を流してしまいました。
ブナはケルト人にとっての水の神様の木です。
そのブナの原生林でこれほど美しい森は初めてで、感動した嬉しさと、我々の国にはないという口惜しさで泣いてしまったんです


花田
「先輩たちはさぞや驚いたでしょう」

ニコル
「男泣きでした(笑)。理由を問われても説明できなかったでしょうけどね」

花田
「第二次大戦が終わり日本に帰って来た兵士たちが、船が日本に近づき山々の緑が見えてきた時『こんな美しい風景は他にない』と感動したそうですね」

ニコル
「ジャングルとは違いますよ。
アフリカの原生林も逞しいし、すばらしいのですが、日本の森の方が美しい。
私が言うのだから間違いない(笑)。
北は知床、南は西表(いりおもて)、日本ほど多様性に富んだ森、言うならば『財産』を持っている国は他にありません。
アマゾンも種類が多いと言われますが、遺伝子でいえば日本の方が多いと思います。
日本は何回も恐ろしい時期から立ち直りました。
最後は第二次世界大戦です。
資源がないと言われているのに、こんなに豊かになった。
それはどうしてか?やっぱり美しい自然があったからだと思います。
日本は戦争で家を焼かれた。
戦後、家を建て直そうとしても、外国の材木は買えないから自国の木を大量に使いました。
しかし、それ以上に台無しにし始めたのは高度経済成長の時からです。
オリンピック後の林野庁が日本の森を破壊した。
私は45年前から日本の森を歩いています。
日本を愛しています。
大好きなカナダを捨て、日本の国籍をいただきました。
私から日本には何も教えられませんが、『ひいおばあさんの時代を思い出してください』と言えます。
60年前に若者たちはなぜ特攻隊として死んでいったのか。
アラーの待つ天国に行くためではなく、自分の家族、この美しい日本を守るためでしょう。
その美しい自然を壊す権利が誰にあるというのですか」


管理人注釈:
祟られ屋シリーズにもありましたが、
日本が多大な霊力を持つ原因、源となっているのは、「森」があるからなのだそう。
「森」が神様を作るのだそうです。
参照:オイラーの森
日本は、その「森」が多い、質が高い?ということで、不思議で深い強い何らかの「力」を持つに至ったのかもしれません。
それが、「日本人の特徴」「日本人の文化」そういうものに結びついているのでしょう。
しかし森を見て涙を流すなんで、なんて高い感性を持っているのでしょう。
じんわりです。
そしてやはりイギリス人でした。

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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。
1895年(明治28年)に日本へ亡命、以後、世界中を巡る。
初代中華民国臨時大総統。
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」と呼ばれる。

「三民主義」より

ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。
日本はアジア問題の代弁者だった。
他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。
白色人種にできることは日本人にもできる。
人間は肌の色で異なるが、知能には違いはない。
アジアには強い日本があるから、白人人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。
日本の台頭は大和(日本)民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。
かつてわれわれはヨーロッパ人がすることはわれわれにはできないと考えていた。
いまわれわれは日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、われわれも日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。


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コリン・ロス
1885年(明治18年)ウィーン生まれ。1938年(昭和13年)3月の独墺合邦以後「ドイツ人」となった。
第一次大戦のときオーストリア新聞特派員として活躍し、その後、アジア、アフリカ、南北アメリカの各地を旅行し、政治、経済に関する論文やその旅行記を書くとともに、映画制作にあたった。

「日中戦争見聞記―1939年のアジア」より 靖国神社の合祀祭(1939年(昭和14年)現在の日中戦争の戦死者が合祀された)についての記述

わたしたちの東京滞在中の宿舎は靖国神社のすぐそばにあったので、一日中大祭をくまなく見物できた。
それこそ始めから終りまで、すべての段階を体験できたといえよう。

だが、わたしにとって最高の体験は、戦死者の神格化が発表される最初の夜の儀式である。
わたしはこれまで、日本国民の魂の中に活動し、彼らの強さの源泉となっているものを、これほど強力かつ衝撃的に痛感したことはなかった。
ヨーロッパ人が理解できず、奇妙に思われるもので、日本に住む外国人にすら、普通会得できないものがこの夜、神聖な祭りに加わった数万の人々にとっては、まったく自然な出来事なのである。

ついに招待された人々は鳥居をくぐり、広々と蓆がひろげられてある場所に着座した。
物音ひとつしない平穏の中で、彼らは蓆の上に正座した。
見渡すかぎり黒絹の式服を着た大勢の人々が着座している様子はまさに硬直した溶岩の原野であった。

一瞬のうちにすべての松明と灯火が消された。
完全に何も見えない暗闇に神社の境内が包まれた。
暗黒の中で音楽が奏でられた。
これは1000年以上も前の古い詩にそえて作曲された賛歌「海行かば」のしらべであった。
その音楽に合わせて荘重な行列が近づいてきた。
その中央には英霊の住居とされている棺のような箱がかつがれてきた。

ほとんど耐えがたい緊張に満たされた最高の瞬間であった。
今や参列者一人一人はもはや耐え忍ぶことができなくなり、英霊に呼びかける声、すすり泣く声、そして祈る声が高々とひびきわたった。

わたしたちは最後の一人が神社境内を去る瞬間まで、靖国神社の中に留まっていた。
参詣者が鳥居をくぐり並木道の参道を通って入ってきたときと同様、今度はわたしは去りゆく人々の顔付をながめようと努めた。
彼らはわたし自身が感じた夢見心地とはいわないまでも、入ってきたときと同じく感慨無量の表情をしていた。

しかし同時にわたしはこの靖国神社の体験を何千キロの彼方に住み、この種の体験を欠き東方の魂を異質的なものと思っている欧米人に伝えることの困難さを痛感した。
言葉などはただ不完全な手段にすぎない。
神ならびに神格化の概念は東洋人と西洋人とでは、まったく異なった意味をもつ。

――そうはいうものの、この言葉の背後にある感覚は、少なくとも戦場に出た者すべてにとっては、東西を問わずなじみ深いであろう。
おそらく、その感覚は大祭のはじめにあたってやにわにわたしの心に浮かんだ「われらは奥津城なり!」との言葉以上に適切に表現されることはあるまい。

結局、靖国神社の大祭も、このことを意味している。
わたしたち西洋人も少なくとも戦場で隣にいた戦友が次から次へと戦死してゆく有様を見、さらには11月9日、ミュンヘンのフェルトヘッレンハッレ*1の祝祭に接して感銘を受けたはずだ。

これすなわち日本人の英雄神格化と同じ「われら生者は奥津城なり」の気持である。
わたしの中に種子がまかれた。
ただ心配なのはそれが開花し、果実を実らせるかどうかということだ。

*1 一般的には「フェルトヘルンハレ」と表記するようです。ヒトラーが起こしたミュンヘン一揆(1923年11月8日-9日)でナチスの党員16名が死亡したことから、ナチス・ドイツ時代に聖地となっていた場所。日本で言うところの靖国神社みたいなものであろうかと。


管理人注釈:
西洋人が感じることが困難な日本独特の感覚を感ずることが出来る外国人の方というのは、非常に稀有な存在で、得難い方だと思います。
視野が広く、柔軟性に満ちて、極めて質の高い感性、そして寛大で優しい心を持っているからこそ分かるのでしょう。
そういう外国人に出会いたいものです。

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とりあえず一旦おわし。
日本すごい!っていうより、日本のことここまで分かってくれている、理解しようとしてくれている、外国の方々の良さの方が引き立っているような・・・汗



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